「さぬきうどん駅」 JR四国 高松駅の愛称制定 ブランド化!!

「さぬきうどん駅」が出来るようだ。
「うどん県。それだけじゃない香川県」プロジェクトを
盛り上げるのが目的らしい。

JR四国が高松駅に今月29日から「さぬきうどん駅」の愛称をつけ、
ホームの駅名称にも記載するそうです。
讃岐うどんの〝ブランド化″をはかり、
香川県を大いにPRしようと言うことなのでしょうね。

「うどんネクタイ」や「うどん県バッジ」の着用、記念撮影用の看板を設置など
駅員も奮闘して対応するようです。
香川県出身の俳優 要潤さんのラッピング列車も走らせるとか。
香川県がますます長ーーーーく、太く愛されるといいですね。
高松駅が「さぬきうどん」駅に JR四国が29日から(12/03/26) (by youtubu)
讃岐うどんの歴史(by wikipedia)
江戸時代以前
讃岐でのうどん屋の記述が、元禄末(18世紀初頭)に描かれた「金毘羅祭礼図屏風」に現れる。
200軒あまりの建物がひしめく金毘羅門前町の活況を描いたこの屏風には
3軒のうどん屋が認められ、いずれも絵馬様イカ型の特徴的な形の
招牌(しょうはい、看板のこと)を掲げて営業している。
同時代の浮世草子「好色一代男」(1682年)の挿絵でも、三河国は芋川に開いた
うむどん屋(うどん屋)が同じ形の招牌を掲げている。
この形状の招牌は、讃岐に限らず麺類を出す店の看板として一般的であった。
江戸時代後期には金毘羅参りを対象とした旅籠が増え、
その1階がうどん屋であることが多かった。
また参拝客が船で発着する丸亀や多度津にもうどん屋があった。
うどん屋の店頭には釜が据えられ、うどんを入れた砥部焼の鉢、付け汁を入れた猪口、
そしてショウガやネギが供され、漬けて食べる形式が一般的だった。
明治時代~戦前
明治時代には夜なきうどんの行商人が高松市内に増え、
1887年頃には天秤棒の両端に縦長の箱を下げ、頂部に石油ランプをともして
鈴を鳴らしながら売り歩いていた。
20世紀に入るとこれらの業者は全て車輪付き屋台を用いるようになり、
その両脇に飾り格子をはめて行燈を吊るしていた。
うどんは鰹節とだしをかけたぶっかけで、人気があったという。
当時は5軒の玉卸し屋があったが、大正時代にはのれん分けの関係をもとに3系統に分かれ、
終戦までこれが続いていた。
昭和初期には飾りガラスなどを凝らした屋台が並び、夜の高松の風物詩と呼ばれた。
20世紀前半の香川県では年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が振舞われ、
「うどんが打てぬようでは嫁にも行けない」という言葉があったという。
第二次世界大戦以後
第二次世界大戦直後の小麦粉が十分に手に入らない中、高松市などでは代用品としてドングリや芋の粉を用い、足りない粘り気はワラビの粉やところてんで繋ぐなどしてうどんが作られていた。小麦粉の供給は、1949年ごろから闇市を中心に回復してきた。
うどんは主に家庭で消費され、また喫茶店や中華料理店を含む様々な飲食店にうどんは置かれた。1960年代にはその数3,000から3,500と推定される。
当時はまだうどん専門店と呼べるような店は高松市内でもほとんど存在していなかったが、
1960年代半ばから香川県独自のセルフサービス方式のうどん専門店が登場し、
1970年前後からはメニュー数種を揃えたうどん専門店も増え始め、
現在に至る香川県におけるうどん店の状況が形作られていった。
(香川県におけるうどん店の業態に関しては後述する)
飲食店の分化・専門化が進んだことでうどんを扱う飲食店の総数は逆に減少した。
1963年2月に高松駅の構内に立ち食いうどん店が開店した。
当時、立ち食い蕎麦は全国の多くの駅にあったがうどんは前例がなかった。
まもなく高松駅構内には2号店もオープンし、テレビなどで「食べる民芸品
」として県内で味の評価の高い店が紹介された。
1969年には宇高連絡船デッキの立ち食いうどんコーナーが営業を開始した。
また、この頃にポリエチレン包装など衛生面の進歩により保存期間が伸び、
土産品としての販売も上昇してきた。
この頃まではうどんが香川の名物であるという認識はそれほど一般的ではなかったが、
1970年の大阪万博で和食チェーンの京樽の運営するレストランのメニューの一つとして
讃岐うどんが供され、ガラス越しに手打ちを実演し毎日6,000食を売り切るなどし、
知名度も上昇していった。
1974年に加ト吉(現・テーブルマーク)が「冷凍讃岐うどん」で冷凍麺市場に参入し、
製造・販売を開始。
しかし、品質面において讃岐うどんの特徴であるコシの強さが出ていないとの理由から、
当時の社長は直ちに改良を指示し、製法や茹で方を研究し試行錯誤を重ねた末、
新技術の開発や新装置を導入して「コシ」問題を解決し、
1976年にリニューアル発売した。
ブーム
有名店の行列(香川県内)
1980年代末頃より、香川県のタウン情報誌「月刊タウン情報かがわ(TJかがわ)」で連載された個性的なうどん店の紹介企画「ゲリラうどん通ごっこ」が評判となる。県内で「うどん屋探訪」がレジャーとして盛んになり、味に加えて個性的な店自体を楽しむ客が大きく増えた。
1988年には瀬戸大橋の開通が好影響を及ぼし、加ト吉「冷凍讃岐うどん」の売上が急増した。
これ以降、主にTJかがわ編集部とその周辺のコミュニティによって、県内のみならず全国に向けたうどんブームの「仕掛け」がなされていった。
まず、在京テレビ局のグルメ番組で、1992年頃より武田鉄矢や吉村明宏といったタレントと
穴場うどん店を巡る番組が放送されはじめ、それは一過性のものに終わることなく
引き続いていく。
近隣の地方局でも情報番組などで穴場うどん店紹介を頻繁に取り上げる。
やがて90年代後半には料理対決番組でのうどんVSそば、テレビ東京「TVチャンピオン」での
「讃岐うどん王選手権」の定期開催など、うどんと穴場うどん店にまつわる露出が
加速していった。
また出版物においては1993年に上記連載の単行本「恐るべきさぬきうどん」が
ホットカプセル(TJかがわ出版元)より県下で発売、後に新潮社より全国発売される。
これは何巻にも渡って刊を重ねた。
並行して、雑誌「レタスクラブ」「DIME」「Hanako」「AERA」などへの寄稿・アドバイスを
精力的に行う。
これらの書籍・記事に触発されたうどん遠征記なども書籍化された。
公告プランナー佐藤尚之(さとなお)の「うまひゃひゃさぬきうどん」(1998年)も
その初期の一つである。
これらの仕掛けは奏功し、1990年代後半からは県外からもうどん屋巡りを目的に
香川へ出向くという観光スタイルが広がっていった。また同時期を通じて、香川県の
うどん生産量は倍増し、田舎の「穴場店」に観光客が行列を作る光景が見られるようになった。ブームの「仕掛け人」とされるTJかがわ編集長・ホットカプセル社長(当時)田尾和俊は
一躍文化人の仲間入りを果たし、多数の受賞のほか2003年には四国学院大学の教授職に
迎えられた。
田尾の成功譚を翻案した映画「UDON」が2006年に公開された。
ブームの回数と発生年
香川県農政水産部は、20世紀後半から4度の讃岐うどんブームが起きたとする。
田尾は第3次と第4次を連続したブームとしている。
ブーム発生の年は以下のとおり。
第1次:1969年 最初の注目。立ち食いうどん、大阪万博への出店や金子正則知事によるトップセールスなどによる。当時香川県はPRのためキャラバン隊を組織していた。
第2次:1988年 瀬戸大橋の開通を受けて四国全体の観光客が増加し、うどん店への客も増加した。一部の店が値段を高騰させるなどの問題も生じた。
橋の開通が好影響を及ぼし、冷凍讃岐うどんの売上が急増し、
全国的に手軽な讃岐うどんとして普及していった。
第3次:1995年 田尾らの仕掛けによる香川県内のうどん店を巡る客の増加。
引き続く全国区への「怪しい店」露出による県外からのうどん店目的の観光客の増加。
第4次:2002年 香川県外でのセルフうどん出店増加により、讃岐うどんを認知し、
実際に食べる機会が増えた。
